【連載・視点】横並びの価格設定はしない!有機米栽培を成功させた群馬・浦部農園とは | RBB TODAY

【連載・視点】横並びの価格設定はしない!有機米栽培を成功させた群馬・浦部農園とは

 広さは30ヘクタールと東京ドーム6個分以上の農地に、有機栽培で育てられた米、麦、大豆。それをわずか8人の人手で手掛けている農園がある。群馬県藤岡市にある古代米浦部農園。

エンタープライズ その他
古代米浦部農園の浦部眞弓さん
  • 古代米浦部農園の浦部眞弓さん
  • 稲刈りの様子
  • 研修生の受け入れも行っている
 広さは30ヘクタールと東京ドーム6個分以上の農地に、有機栽培で育てられた米、麦、大豆。それをわずか8人の人手で手掛けている農園がある。群馬県藤岡市にある古代米浦部農園。1990年にこの地で農業を始めて以来、変わらぬ姿勢で田畑を耕してきた。

 創業者は今でも農園で先頭に立って働く浦部夫婦。妻の浦部眞弓さんによると、かつて2人は東京で働いていた公務員だったという。しかし、眞弓さんが32歳でベーチェット病をわずらったことで、夫婦は故郷に戻り、有機農家という生き方を選ぶことになる。

■自分が生きるための米を求めて

 浦部眞弓さんが発症したベーチェット病は、現代でも難病の一つに挙げられる病。口腔の粘膜や眼、関節、血管などに炎症が発生する。眞弓さんはこの病によって一時は寝たきりになり、失明寸前にまで追い込まれた。

 夫の修さんの実家がある藤岡市に戻ったのは、療養のためというのもあったが、何よりもまず食べるためだったと眞弓さんは話している。それは、お金のためというだけではない。文字通りに身体が受け付ける食物を探すためだ。この時、眞弓さんの身体は農薬を受け付けなくなり、食料のほとんどを自然食品店で購入していた。しかし、当時は有機JAS法のようなガイドラインが無かったため、“無農薬”や“有機栽培”とうたっていても、相当な当たり外れがあったという。

 だから、田舎に戻れば安心して食べられるものが手に入るはずだと、その時浦部夫婦は考えていた。実際に野菜については、各農家が自給自足のために育てており、無農薬のものが手に入ったという。しかし、米と麦はどこまで行っても、地元に無農薬で育てている農家は無かった。

 これは、カントリーエレベーターという共同調整乾燥機を使って、その土地で採れた米をまとめて貯蔵する、現在の農協の仕組みに問題がある。例え無農薬で米を育てたとしても、他の米に混ざって貯蔵されては意味がない。農協側にも流通経路がないため、無農薬の米は取り扱ってくれなかった。

 しかし、浦部家の実家にはほとんど無農薬で耕してきた田畑があれば、数頭の家畜を育てる中で作られた有機肥料もあった。ならば、これらを使って、自分達で無農薬の米が作れるのではないだろうか?

 こうして浦部夫婦による米作りが始まる。もちろん、有機栽培についての知識などない、技術的には全くゼロからのスタートだった。


■日本の砂漠、群馬での有機米づくり

 無農薬での米作りを始めるにあたって、夫婦はまず米の有機栽培に関する情報を手探りで集めたという。農薬を使わないということは、雑草を抑える手段が必要となる。しかし、有機農業は当時ホビー的な産業と見なされており、指導センターや農協、行政などの手を借りることはできなかった。

 ただ、調べてみると福島の一部の農家で、実験的に有機農業を始めたグループがあった。彼らは、冬の間に水を張った田圃を、春に一度代掻きすることで水草を除去。さらに、田植えの直前にもう一度代掻きを繰り返し、雑草が全くない状況から稲を育てていた。こうすることで、稲の成長が雑草に競り勝ち、雑草の生命力を弱めることに成功していたという。

 しかし、群馬は日本の砂漠と言われるほどの乾燥地。田植えのギリギリまで水入れを待たなければ、夏場の水不足が問題になる。それでも、何とか真似して稲を植えてはみたが、結果としてできたのは雑草まみれの田圃だった。

 ただ、それでも夫婦にとっては問題なかったという。必要なのは自分たちが食べるだけの量の米。1ヘクタール程度の田圃を、修さんが東京で公務員として働く傍らで耕し、収穫の残りは親戚に配っておしまい。売れるなんて思ってはいない。当時はそれでいいと考えていた。翌年には偶然に見つけてきた古代米が、眞弓さんの身体に合うからという理由で、一部の田圃で育て始める。それは、藤岡市であれば普通なら1反8俵は収穫できるところ、1反で1~3俵という収穫の少ない米だった。

 とはいえ、浦部夫婦もできることなら、育てた米を売りたいとは考えていたという。当初、農家を始めるにあたって、かかった初期投資が1500万円。公務員の傍らで、土日中心の作業で田圃を管理するには、ある程度のパワーのあるコンバインやトラクターが必要だった。さらに、自前で米を貯蔵するには、乾燥機や保冷庫も必要になる。

 その一方で当時の兼業農家としての生活は苦しいものだった。米の有機栽培を続けるうちに、どうやら雑草の育ちを抑えるには、芽を出したばかりの一番草を刈る必要があると分かってきた。それが、さらに育つと簡易な草刈り機では手に負えなくなるため、修さんはシーズン中は毎晩田圃に出て、雑草を刈り続けた。


■“自分達の米”から求める人たちへ

 夫婦二人で細々と兼業農家を手掛けていた浦部夫婦だったが、実は彼らのことに注目していた人々がいた。きっかけになったのは古代米。その情報が口コミで広まって、ぜひとも食べてみたいという人が現れたのだ。

 白米は量があるため、そこまでの規模の需要があるか分からない。しかし、古代米ならば収穫量も少ないので、売り切ることもできるのではないだろうか。そう考えた眞弓さんは、当時有機栽培のバイブルと言われていた本のことを思い出し、その巻末にあった自然食品店のリストへと手紙を出す。

 浦部夫婦の作った米を求める声は、二人が思っていた以上に大きかった。その年のうちに取引が成立すると、消費者が新たな買い手を呼んで、やがて夫婦から直接古代米を買う人も増えていく。10年が過ぎる頃には、直販の顧客は2000人を超える規模まで増えていった。

 また、その声にこたえるように、夫婦も田圃の規模を徐々に広げていった。この頃になると、食事療法や農家での生活が眞弓さんの身体を癒し、毎日汗をかいて農作業ができるほどに病状が改善していたという。結果として田圃は5ヘクタールまで広がり、それでも収穫した古代米は毎年完売していった。

 そんな夫婦の下に、知人から2ヘクタールの田圃を借りてほしいという話があった。これを承諾した二人はその年、7ヘクタールの田圃を使った有機栽培に挑戦する。しかし、それが夫婦での稲作の限界だった。

 それまで二人は田圃を1週間でぐるりと回り、雑草の一番草を順番に刈り続けていた。しかし、今回夫婦が手掛ける畑は7ヘクタール。一通りの除草を行い、刈り始めの場所に戻ると、すでに雑草は簡易な草刈り機では太刀打ちできないサイズになっていた。その雑草が種を落とし、芽を吹き、育ち……。

 その年、夫婦の田圃は、有機栽培を始めたばかりの頃のように雑草にまみれた。それは、“雑草のない”5ヘクタールの田圃を失ったということ。翌年に苗を植えても、一面に散った種が一斉に芽を吹いて、米の生育を妨げるだろう。

「この時に選択肢はもう2つしかないんです。農薬を使うか、1ヘクタールの“草の無い” 田圃から再出発するか。もちろん、農業を止めるという考えも頭を過りました」


■“究極の米”から始まった再出発の道

 田圃を雑草まみれにし、2反で3俵という悲惨な収穫を迎えた年。しかし、夫婦が育てた米を買いたいという人はいた。価格は1俵30万円。それも、高級料亭やホテルなどではない。相手は今まで付き合いのあった、ごく普通の顧客だった。

 実は、この値付けが成立したのにはわけがある。田圃に生えた雑草は窒素を吸うため、その分だけミネラル分が稲に集中する。そのため、二人は田圃を雑草だらけにすることで、ある意味で究極と言えるほど美味しい米を作っていたのだ。

「でも、私たちは寿命が7年ぐらいとされる農機具に1500万円を投資してでも、無農薬の米が食べたかったわけです。1俵30万円の米があれば、家族で1年は食べられます。そのぐらいの金は出してもいいという価値観を持つ人は、きっと他にもいるはず。なら、米の価格を横並びで見るのは止めようと、その時に決意しました」

 これまでの規模で有機農法をするには、もう公務員の片手間では無理だろう。しかも、年齢を考えると、今までのような無理な農作業は続けられない。ならば、米を一体いくらで売れば、人間らしく暮らしていけるか。夫婦は話し合って、2人分の年収として700万円という売り上げのボーダーラインを設定したという。

 5ヘクタールが約50反として、古代米なら1反あたり1俵から3俵取れる。ならば、1俵10万円で売れるならば、このまま農家をやろう。この価格設定だと1俵が60kgだから、1キロが1666円。ここに、小分けの資材費、機械費、郵送代などを乗せて、価格設定は500gで1900円とした。

「今の米の販売価格では、農家に再生産費すら残りません。そこに助成金が入って、ようやく次の田植えができる。でも、それは本来おかしな話ですよね。例えば、白米が5kgで3000円として、1俵が3万6000円。普通の田圃は1反で8俵から10俵取れますから、1反28万8000円で、うちの古代米の価格に並びます。つまり、直販であれば消費者には再生産費を出す気があるわけです」

 こうして、2人は2004年に古代米浦部農園を設立する。それは、浦部夫婦による本業としての農業の始まりだった。


■新たな挑戦が生んだ2年3作方式の確立

 本業として農家を始めるにあたって、修さんには一つやりたいことがあった。それは、裏作として麦を栽培すること。乾燥地帯の群馬は水を嫌う麦が育ちやすく、古くから日本有数の二毛作地帯だった。ならば、土地にあった作物を栽培してみたいと、前々から考えていたという。

 ただ、有機栽培による麦となると、やはり農協はあてにならない。このため当初、麦の栽培は流通先を考えないままの見切り発車だったという。しかし、結果としてこの決断が浦部農園の稲作を大きく変えた。

 二毛作をやるということは、冬場は田圃が畑になるため、春に水を張っても水草の力が弱まる。そのため、冬に麦を植えた翌年、その田圃では夏場に雑草が激減した。一方、麦作でも同じように雑草の力を抑えることができたという。2年目からは眞弓さんが売り先を見つけてきて、麦作も徐々に軌道に乗っていった。

「そうしたら、夫が今度は大豆を育てたいと言い出して。さすがに、これには反対しました。大豆は栽培時期が米とかぶるから、育てるならその代わりになる。何で古代米の売り上げが伸びているのに、生産量を減らすようなことをするのかって」

 ただ、話を聞いてみると、この大豆は新潟のある農家から持ち込まれたものだという。名前はさといらず、砂糖がいらないほど甘いことからその名が付いた。しかし、手間がかかるために今では誰も作らなくなり、その栽培を引き継いでもらえないかと話に来たという。

「それで、その大豆を食べたら、もう他のが食べられないぐらい美味しかったんです。これなら仕方がない、こんな大豆を世の中から失くせないよねって。元々乗り気だった夫の話に乗りました」

 こうして、新たに始めたさといらずの栽培。その難しさに、夫婦は栽培1年目から苦労させられる。現在、育てられている大豆の品種は、茎が長く伸びるよう品種改良されたもの。しかし、さといらずは地面に沿うように葉が伸びていく。試しにコンバインを畑の一部に入れると、地表すれすれに実った豆が収穫できずに地面に落ちた。

 それならばと手で刈り取ると、さといらずは脱粒性が高いため、実がポロポロと落ちたという。そんな大豆と格闘しているうちに、麦も植えられないまま季節は過ぎていく。結局、田植えの時期が近づいても、田圃には豆作の畝が残ったまま。それを大雑把に田起こしして、半ば収穫を諦めながらも苗を植えたという。

「この年の夏のことを、私は今でもよく覚えています。大豆の収穫をした跡で、代掻きをした部分だけが雑草が伸びなかったんです。この頃には農園の整地が進んで、福島の有機農法のように深水管理ができる田圃も出てきてましたが、その効果は2回代掻き以上に長続きしました」

 その後、学者に話を聞いてみると、どうやら大豆に含まれるサポニンという成分が、水に溶けて抑草の役割を果たしたのだという。この経験を元にして、夫婦は乾田については米、麦、大豆の2年3作方式を採用することになる。そして、水が潤沢で深水管理のできる田圃では常に米を育てる一方で、豆がらを撒くこと。これによって、30ヘクタールを8人で手掛ける、浦部農園の有機農法は確立された。


■浦部農園の無農薬な米作りを継承する

 古代米浦部農園が設立された年、農園では研修生制度が導入された。目的は農園の規模を拡大すること。ただ、本当のところは自分たちが独立の際に抱えた苦労のうち、せめて技術面だけでも軽減させたいという願いがあったという。

「さらに言うなら、私たちの有機栽培はたまたま成功したのか、他の誰がやっても成功するのか。それを知りたかったんです。私は売ることを得意としてますが、商売下手な人に有機栽培は無理なのか。もしそうなら、私たちがいなくなったとき、会社をたたむしかありませんよね? 正直その頃には、ある程度の覚悟はしていました」

 浦部農園での研修では、2年3作のローテーションを一通り経験することになる。それは、農作物の栽培だけの話だけではない。販売のノウハウも教えれば、有機JASの取得方法も学ぶことができるという。農業で疲れた身体を癒すために行うヨガやストレッチも、カリキュラムに含まれるというのだから驚きだ。

 こうして2年が経ったら、研修生は独立して自作農となる。その数は全部で11人。今でも誰も脱落することなく、有機農家として成功を続けている。

 その様子を見た浦部夫妻は、彼らの背後に自分達のような農家を望む消費者の姿を見たという。ならば、例えTPPで外国の米が入ってきても、顧客との結びつきを構築すれば、会社は残るのではないだろうか? その考えは後に農園がある危機に直面したとき、ハブ農家という形で芽吹くことになる。


■東日本大震災発生、そして…

 2011年3月、東日本大震災が発生。この時、浦部農園では会社を2週間休んだ。福島第一原子力発電所での事故を聞いてすぐ、夫妻は従業員には戸外での作業を禁止したという。自宅での待機が続く中、最初に行動を起こしたのは研修生たちだった。原発事故に対する学習会を開きたいと、自ら申し出てきた。

 この事態をどう乗り切るべきか。そう考えたときに前例になるのはチェルノブイリしかない。ならば、当時一番厳しい基準だった10ベクレルを超えたら、そこで農業を止めよう。1ベクレルを超えた作物は売らないようにしようと、その場にいた全員で決めた。このことは浦部農園の見解として、ホームページでもいち早く告知したという。

「その時には、もう駄目だろうと半ば覚悟は決めていました。情報が全くない時期でしたから。これって、もう廃業を宣言したようなものだよねと話していたぐらいです」

 しかし、情報が明らかになるにつれて、どうやら浦部農園の田圃は汚染のクールスポットだったことが分かり始める。藤岡市が100メートル四方ごとに行った調査でも、ほとんどの地域で汚染は報告されない。やがて秋が来て、収穫された古代米の放射線量は1ベクレルを下回った。

 これなら行けると、浦部農園は古代米を売りに出す。しかし、風評被害は夫婦の想像を超えていた。震災前には1万人を超えていた顧客は、その年にかつての半数を割り込む。保存する暇もないほどに売れていた米が、在庫となって保冷庫に山積みとなった。


■大ロットな業者の需要に“ハブ農家”で応える

 直販が中心の浦部農園ではそれまで、有機農家を育てながら一緒に成長していった宅配グループ、もしくは初期に付き合いのあった町の小さな自然食品店にしか米を下ろしていなかった。例外は帝国ホテルなど古代米のバリューアップに貢献しそうな相手だけで、それも先方から懇願されての取引だったという。

 それでも、風評被害でできた在庫を売るには、もはや大ロットな取引を何とか開拓するしかない。そう考えた眞弓さんは、それまで付き合いの無かった業者へと積極的に営業をかけた。だが、群馬の米が1俵6000円まで暴落していた当時、話を持ちかけても、誰もが浦部農園の米を買いたたこうとする。

「ただ、そんな酷い状況の中でも、私たちの理念を分かってくれる方々がいました。ある外食チェーンがきちんと再生産費が出るような価格で、農園の米を取引してくれると言ってくれたんです。業者だから毛嫌いするのではなく、きちんとした見識のある方となら十分に組んでいけるのだと、その時に少し考え方が変わりましたね」

 しかし、話を突き詰めていくと、どうやら先方が欲しいのは精米だという。もし、この取引を実現させるなら、農園に精米工場を建てることになるだろう。その価格はおよそ7000万円。これには、さすがの修さんも顔をしかめた。

「ただ、震災があった年に、浦部農園では政策金融金庫から融資を受けていたんです。私はそれまで利子を払うのが嫌だったので、借金をしたことがありませんでした。でも、規模を拡大して、攻めの農業を続けていたのが国の政策と合致していたんでしょうね。無利子でいいから資金を作って、今までのように米を作って欲しいと言われたんです」

 精米工場の件についても、政策金融金庫が融資をしてくれるという。ちょうど前の借金の返済が終わるタイミングも近づいていた。ならば、これを機会に有機米を作っている人たちのハブ農家を作れないかと、その時に眞弓さんは考えたという。

 大ロットを扱う業者は欠品が怖いため、小さな農家とは取引をしようとしない。一方で、浦部農園では自分たちの田圃だけでなく、独立していった実習生たちが育てた米も集めることができた。なら、同じように有機栽培をしている農家の米を集荷し、それを浦部農園で精米すれば、より多くの業者と取引ができるのではないだろうか。

 2014年の秋、浦部農園に精米工場が完成。集荷事業を始めたことで、浦部農園をはじめとする農家の育てた有機米は、以前と変わらない価格を維持できた。将来的には小麦や大豆でも、同じような仕組みが作れないかと、夫婦は卒業生たちと話を進めている。

「農家は連帯して大きなロットを取らないと、これからは生き延びられません。少子化によって米や野菜の消費量は確実に減っているんです。ただ、その中でも有機は市場が小さいので、生産が追い付かない程度の需要がある。そこに、フェアトレードが成立する余地があるんです」


■日本における米の有機栽培の可能性は?

 浦部農園では10年以上の時を経て、乾田による米の有機栽培の可能性を実証してきた。一方で湿田については、すでに米を有機栽培で育てる技術が確立されているという。では、誰もが有機栽培で米を育てられる環境は整っているのだろうか? 眞弓さんによると、そこにはあるハードルがあるという。

 そのうちの一つが浦部夫妻も苦労した初期投資の問題だ。カントリーエレベーターによる管理が続いている中、米を有機栽培するには1500万円程度の設備が必要になる。ただ、これについては、ある可能性があると眞弓さんは話している。

「全国で農家が減って、カントリーエレベーターがフル稼働できなくなっています。でも、管理費は変わらずかかるわけですから、それが行政の負担になっている。だったら、1機を有機米専用として開放すればいいんです。これによって、農協でも有機米を扱えるようになりますし、実際にそういうお話を頂いたこともありました」

 また、もう一つの問題になっているのが農業融資の条件だ。藤岡市であれば融資の受けるには、3反以上の農地を耕して、作物を販売している必要がある。つまり、新規に農業を始めようという人は、融資を受けられないのが現状だ。

 さらに、今の時代は耕す農地はいくらでもあるが、それを借りるとなると問題もある。土地の所有者は農地を復元可能な状態で貸したい。だが、実際に農業をするには農機具を入れる倉庫が必要となる。そのために基礎をうち、建物を建てるのを嫌う所有者も多いようだ。

「ただ、有機農法に新規参入するなら、今がチャンスであることは間違いありません。旧態依然とした農家があと数年でリタイアして、その後ろの世代は全く育っていない。そこに必ず需要は生まれます」

 TPPで輸入米が入ってくれば、日本の農業はより厳しい状態に追い込まれるかもしれない。だが、その中でも技術を確立して、再生産費の出る販路を構築できれば、農家として生き延びる目も出てくるだろう。そのチャンスは、あるいは今しか残されていないのかもしれない。

【地方発ヒット商品の裏側】8人で広さ30haの有機米栽培、古代米浦部農園はなぜ成功した?

《丸田鉄平/H14》

関連ニュース

特集

page top