【仏教とIT】第4回 ITが進化してもデジタル化できない仏教の世界 | RBB TODAY
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【仏教とIT】第4回 ITが進化してもデジタル化できない仏教の世界

IT・デジタル その他
(c)pixta
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  • 「大正新脩大蔵経」
  • SAT大正新脩大藏經テキストデータベース

楷書体フォントという黒船


 私が生まれ育ったお寺では、毎月1回、日曜の朝に写経会が開かれていた。

 墨と筆で「般若心経」を書き写し、一緒に勤行をし、住職の法話を聞く。

 熱心な方は、5年や10年にわたって、欠かさず参加されていた。ご自宅でも写経を重ねられている方もあった。前回の原稿にも書いた通り、写経には大きな功徳があり、病気平癒や先祖供養につながると古くから信じられてきたからである。

 私も物心ついたころから、両親の指導もあり、写経会に参加していた。日曜日の朝は戦隊モノのテレビ番組でも見てダラダラ過ごしたかったが、写経会がある週はテレビを早々に切り上げて本堂に向かった。

 写経の作法は簡単で、お手本の上に紙を置いてただなぞっていくだけである。とはいえ、ご年配の方々がすらすらと筆を運ぶような域に、すぐに到達できるものではない。慣れない筆で書写するのは、骨の折れる作業だった。一生懸命に書き上げても、その文字はまったくご利益を感じられないほど汚かった。高校時代ぐらいにPC画面に颯爽とあらわれた楷書体フォントのほうが、よっぽど有難いように思えた。

デジタル化の波を受けた仏典研究


 多感な時期にIT化の波を受けた私は、いつしかアナログな文化全般を古臭いものだと思うようになっていた。写経にかぎらず、ビジネス文書や手紙なども、PCで書かれた書類のほうが、綺麗で読みやすい。しかもPCのドキュメントは検索もコピペも可能だから圧倒的に便利である。

 実際、IT技術によって、仏典の扱い方もまったく変わった。

 PCが誕生する以前は、どの仏典に何が書いてあるかを把握しているのが、僧侶に求められる学識だった。しかし、現代人の曖昧な記憶から導き出される検索結果は、到底PCのそれにかなわない。私が大学・大学院で仏教を研究していたのは2001年から4年間だったが、生半可な素養で先輩風を吹かせているようなら、PCの扱いに長けた初学者に足元をすくわれてしまうという風景を、しばしば目にしたものである。

 いまでは「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」なるものがWeb上に公開されており、あらゆる仏典を手軽に全文検索ができるようになっている。2015年版からはこのデータベースに浄土宗全書も検索対象に加えられるなど、サービスは年々拡充されている。これらデータベースをいかにうまく使いこなせるかが、一人一人のお坊さんに問われる時代になっている。

葬儀に役立つ仏典データベース


 私にとっても、この巨大なデータベースを検索し、解析するのは、日常の一ページになっている。原稿を書いたり法話の準備をしたりするときには適宜参照するし、また、戒名をつけるときにもとっさに役に立つ。

 戒名は本来、生前に仏門に入って戒を授かったときにもらうものであるが、現代ではお通夜までにつけるのが大抵である。そうすると、訃報が入ってから1日か2日のうちに、もろもろの葬送の準備とあわせて、慌ただしく戒名を考えることになる。

 戒名をつける際には、俗名の一字を入れて故人を偲びやすく、かつ、生前のお人柄を仏教的に讃えられるようにする。さらには、字面、響きなども整えなければならないから、簡単にひらめくものではない。悩んでいるとお通夜の時間は刻々と近づく。そんなとき、つたない私の知力を補ってくれる相棒となるのが、Web上の仏典データベースである。故人の俗名など、使いたい文字を入れて検索すれば、経典での用例がずらっと出てくる。たとえば以下の写真は、「龍」の字を入れて検索したところ。このように出て来た用例を眺めながら、その文字を使った戒名を考えていく。

SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
SAT大正新脩大藏經テキストデータベースで検索したところ


 ちなみに、戒名ジェネレータを提供するWebサイトも存在するが、私が知る限り、ランダムに文字を当てはめるだけのプログラムで、まったく物足りない。現時点では、仏典データベースの助けを借りながらも、必死で頭を働かして戒名を考えて故人を供養するのが、私なりの最適解である。

経本を足でまたぐなかれ


 もちろん、戒名ジェネレータに関しては、今後もっと開発が進めば精度があがるだろう。そうなれば、いまよりももっとスムーズに葬儀が迎えられるかもしれないが、一抹の不安もぬぐえない。

 近年の葬儀は、バリアフリーで空調も完備した葬祭会館で行われるのが主流である。故人の生きた匂いの残る自宅での葬儀より、はるかに快適に迎えられるのは確かであるが、物足りなさも残る。加えて、戒名ジェネレータで戒名が量産されるなどオートメーション化が進んでいけば、葬儀はますます無感動なものになり、仏教不要論が高まるだろう。

 では、仏教において、デジタル化しえないものとはなんだろうか。

 ふと思い起こすのは、両親に怒られた記憶である。

 子供の頃、経本や袈裟や数珠などを床に置いたり、しかも足でまたいだりすると、ひどく怒られた。幼かった私には、なぜ怒られているのかはっきりとはわからなかったが、その剣幕からひしひしと伝わってくるものがあった。経本などのリアルな仏具の扱いを通じて、神仏に対する畏敬の念という、一番本質的な感情を教わった。

 経本は、一般的な書籍のごとくに、ぱっと手に取って読みたいページを開いてはいけない。開く前に手を合わせて恭しくいただくのが、作法である。お経とは、「百千万劫にも遭いがたい尊い教え(無上甚深微妙法百千万劫難遭遇)」だと受け止めるべきものだからである。劫とは悠久ともいえる長さを表す時間の単位である。すなわち、お経の一文字一文字の味わいをかみしめて読み進めていくのは、データベースを検索して瞬時にレスポンスを得て満足するのとは、対極的な世界なのである。

「大正新脩大蔵経」
「大正新脩大蔵経」


 仏典がすべて電子化されて検索できる時代には、部屋に引きこもってPCモニタに向かい、仏教を学び続けることも理論的には可能であるが、PCで仏典データベースを検索するたびに、恭しく礼拝する人はいない。デジタルな情報だけ頭に詰め込んで満足し、仏教の世界と結局出会わなければ、本末転倒である。

 せっかく日本全国にお寺があるのだから、風景として閑却されるのではなく、多くの人が足を運んで、恭しく手を合わせて仏教を体感できる時代になればいい。実際、IT環境が整うほどに、逆説的であるが、お寺へと足を運ぼうとする人たちは増えていると感じる。次回のコラムにはそのあたりのことを書くつもりである。

■第1回:お坊さんから見た、ITの世界


池口 龍法氏
池口 龍法氏

【著者】池口 龍法
1980年兵庫県生まれ。兵庫教区伊丹組西明寺に生まれ育ち、京都大学、同大学院ではインドおよびチベットの仏教学を研究。大学院中退後、2005年4月より知恩院に奉職し、現在は編集主幹をつとめる。2009年8月に超宗派の若手僧侶を中心に「フリースタイルな僧侶たち」を発足させて代表に就任し、フリーマガジンの発行など仏教と出合う縁の創出に取り組む(~2015年3月)。2014年6月より京都教区大宮組龍岸寺住職。著書に『お寺に行こう! 坊主が選んだ「寺」の処方箋』(講談社)、寄稿には京都新聞への連載(全50回)、キリスト新聞への連載(2017年7月~)など。
■龍岸寺ホームページ http://ryuganji.jp
■Twitter https://twitter.com/senrenja
《池口 龍法》
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