「父にリストラ案を出したら、私がクビに」……ダイヤ精機社長・諏訪貴子氏 | RBB TODAY

「父にリストラ案を出したら、私がクビに」……ダイヤ精機社長・諏訪貴子氏

エンタープライズ その他

ダイヤ精機 代表取締役 諏訪貴子氏
  • ダイヤ精機 代表取締役 諏訪貴子氏
  • 秘書の募集と聞いて面接にいったら技術者採用でした
  • ダイヤ精機のホームページ
――高度成長期やバブル期のような大企業モデルが崩壊し、地方や地域の時代とも言われている。また、国内事業者のうち大企業約1万社に対し、中小企業、小規模事業者は384万社と全体の99%を占めている。日本を盛り上げていくには、これら地方・地域の中小企業の存在が欠かせない。この特集では、地元のまちおこしや地域産業で活躍する人物にスポットをあて、その活動・取り組み・ビジネスに対する考え方を紹介する。

 今回取り上げるのは家族の事情により主婦から父親の会社の社長に就任することになったという異例の経歴をもちながら、事業の建て直しにも成功したダイヤ精機 代表取締役 諏訪貴子氏だ。波乱に満ちた経歴を2回にわたってお届けする。


■子どもの頃から、男の子のように育ち、大学は工学部に
 2004年に急逝した父親に代わって、一介の主婦から2代目の社長を引き継ぎ、傾きかけた町工場の再生に成功したダイヤ精機の諏訪貴子氏。これまでの厳しい経済環境のなかで、一度は会社を解散することまで考えるほどの危機にも遭遇してきたという。社長として、すべてが初めての経験であり、本当に手探りのなか、無我夢中で会社のために突っ走ってきた同氏。この10年間を振り返り、あらためて思うことは「やはり人の力であり、人材の育成が重要だ」という。

 諏訪氏は、モノづくりが盛んな東京・大田区の町工場の娘として生まれた。上には姉と兄がいたが、兄はわずか6歳で白血病のため夭折してしまった。そのためか子どものころから諏訪氏は、父上に男の子のように育てられたという。父上は決して工場を継いで欲しいと言わなかったが、諏訪氏も子供のころから工場や取引先に出入りしているうちに、モノづくりの大切さ、仕事の厳しさ、職人の温もりを自然に感じ取っていたという。

 そんな同氏を見て、やはり父親は胸中で諏訪氏に期待をかけていたようだ。大学は成蹊大学の工学部で工業化学を学んだが、父親からは進学に際して「工学部以外でないとお金をださない」と言われたという。「本当は医学部にもあこがれていました。心の中では機械工学科に行くのに抵抗感があって、化学を選びました。化学ならば薬学に近いことも学べますから。卒論ではガン細胞のDNA抽出の研究をさせてもらいました」(諏訪氏)。

 そして大学4年になり就活の時期を迎えたが、その間にバブルが崩壊し、氷河期時代に突入してしまった。厳しい就職活動のなかで、アナウンサーなども志望したが、工学系ということで技術採用のみ。最終的に父親の勧めで、自動車部品メーカーの大手、ユニシアジェックス(現・日立オートモティブシステムズ)を受けて入社することになった。「当初、父親からは、役員秘書を募集していると言われたのですが、いざフタを開けてみると技術職での採用でした。工機部に配属され、ここで初めてのエンジニアになりましたが、父親にだまされていたんですね(笑)」。

■社会人で経験した極貧生活。生米を食べて凌いだ経験から芽生えたコスト意識
 そこで同氏は、2代目修行を送ることになった。製造部門で旋盤やフライス盤の扱いを覚えたり、生産管理部門で部品を発注したり、品質管理部門で検査を行ったり、設計部門で図面を引きながらノウハウを水のように吸収していった。「ただ当時は会社を辞めたくて……。やはり女性一人なので、何をやるにもすごく目立ってしまいました。さらにダイヤ精機の看板を背負っており、いろいろ辛く当たられることもありました」と回想する。

 実は、諏訪氏は社会人になる前に、父親から言い渡されていたことがあった。それは「絶対にお客様の誘いを断るな」ということ。その掟を守り、会社関係のつきあいでは、飲み会やカラオケ、ゴルフなど、少ない給料から工面して参加していた。しかし、そのおかげで、寮生活は極貧生活だった。「お嬢さんだから、親から援助を受けているだろうと周囲は思っていたようですが、まったく援助は受けていませんでした。お金がなくて、電気・ガスがストップし、生の米をジャリジャリと食べた経験もあったぐらい。しれでも絶対に弱音を吐きたくなかった」(諏訪氏)。



 この2年間は、人生の中ですごく大切で濃密な時期を過ごせたという。「貧乏生活の経験がなければ、いまの私はないと思います。1円でも無駄にできないお金の重み。お金を稼ぐことの苦労や大切さを知り、このときコスト意識が芽生えました」(諏訪氏)。

■リストラするなら身内から。諏訪氏、父の会社を2度もクビになる
 そんな厳しい下積生活とも、修行ともいえるような生活を送っていた同氏だったが、1997年には寿退職して専業主婦に戻った。しかし、バブル崩壊後の長引く不況は、どの中小企業の経営にも大きなダメージを与えていた。中小企業が集まる大田区でも、工場がバタバタと倒産していった。当時のダイヤ精機は30名ほどの従業員を抱えており、マスターゲージや治具などを主力製品にしていた。ゲージは部品の寸法を図る精密な測定具であり、精度をμ単位で仕上げなければならない。熟練工の長年にわたる技術や勘がものをいう世界で、誰でも簡単につくれるモノではなかった。

 そんな一芸に秀でた技術を有するダイヤ精機でさえも、長年の不況で疲弊し、苦境に立たされていた。そこで主婦であった同氏に、父親から「仕事を手伝って欲しい」と声がかかった。「ダイヤ精機では総務部に入り、社員とのパイプ役を務めました。そこで会社再建のために、いったん会社の規模を縮小し、出費を減らして、体力を回復してから成長を目指すというリストラ案を出しました。すると父親から“まずリストラするならば、提案した本人のお前からだ”といわれ、私がクビになりました。その後もう一回、会社に呼ばれたのですが、同様にリストラ案を出して、またクビになりました(笑)」(諏訪氏)

 もちろん親子の考えの違いはあっただろうが、父親は企業経営者として、まず人材を一番に考えていたのだ。中小企業であれば、社員一人ひとりの顔や、その家族の姿も目に浮かぶだろう。昨今の大企業では、経営が少しでも悪化すると、何百人、何千人単位の人材をいとも簡単に切ってしまう風潮があるが、それは相手の顔がしっかり見えないからだ。しかし中小企業は違う。人材は本当に宝だ。そう易々とクビにすることはできない。クビにすれば周りに反発も買うことになる。「当時の父の思いを察すれば、経営者としての雇用責任があり、まずクビにするなら身内からという気持ちがあったと思います。それにまして雇用を守るために、売り上げを上げる方法を一緒に考えて欲しかったのだと思います」(諏訪氏)。

――次回はいよいよ社長就任後の話だ。諏訪氏に開花した社長業、マネジメント力の真骨頂をお伝えする。

~地元から日本を盛り上げるキーパーソン~普通の主婦から社長に――ダイヤ精機の改革と人材育成の極意に学ぶ(1)

《井上猛雄》

関連ニュース

特集

page top