【浅羽としやのICT徒然】第14回 マクルーハンが50年前に気づいていたこと | RBB TODAY

【浅羽としやのICT徒然】第14回 マクルーハンが50年前に気づいていたこと

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●「メディア論」50周年

 4月16日に、カナダ大使館のオスカーピータソンシアターで開催された、「マクルーハンの跡を追って:『メディア論』刊行50周年」というイベントに参加してきました。マーシャル・マクルーハンはカナダ出身で、もともとは英文学者でしたが、トロント大学で教鞭を取る傍ら著した「グーテンベルクの銀河系」や「メディア論」等の著作で、独自のメディアに関する理論を展開し世界中から注目を集めた、メディア論の始祖のような人物です。マクルーハンの代表作である「メディア論 人間拡張の諸相(Understanding Media: The Extensions of Man)」は、1964年に刊行されましたので、今年2014年がちょうど50周年となるわけです。

 マクルーハンの最も有名な言葉は「メディアはメッセージである」です。これは、「メディア論」の最初の章のタイトルにもなっており、マクルーハンの理論の根幹をなす考え方です。マクルーハンの言う「メディア」とは、マスメディアなどのいわゆる「メディア」だけではなく、人間のさまざまな活動を便利にする道具やテクノロジー全般が含まれています。そして、それらの道具やテクノロジーを、人間の何らかの能力を拡張するものと位置づけています。

 つまり、それらの広義の「メディア」は、我々が、我々を取り巻く環境と相互作用を行う際の「媒体」となるものです。すると、新しいメディアやテクノロジーの登場は、人間が世界と対峙する際のインタフェースが変わるということを意味します。その結果、逆に人間が世界を認識する仕方や、場合によっては、環境世界との関係さえ変えられてしまうものである、ということをマクルーハンは「メディアはメッセージである」という一言で言い表しているのです。そして、最後は我々自身の在り方や社会の仕組みさえも変わってしまう、ということになるわけです。

 マクルーハンは、書物のようなメディアが登場する以前は、口述による感覚的で部族的な社会だったものが、活版印刷術の発明により文字文化が広がると、あらゆるものが文字により論理的に整理され、部族から切り離された個人が中心となる時代に変化したとしています。そして、まだラジオやTVが流行し始めたばかりの時代に、今度は電気メディアが人間の中枢神経系を拡張し、一つに繋げてしまうことで、人類を再び部族的な状態に戻し、全ての人が全ての出来事を同時に知るような、まるで地球全体が一つの村であるかのような社会になると分析し、その状態を「グローバルビレッジ」と名付けています。

●マクルーハンズウェイク

 この日のイベントのメインは、「McLuhan’s Wake」という2002年にカナダ国立映画製作庁が作成した、マクルーハンの生涯と彼の理論を追ったドキュメンタリー映画の上映でした。青山学院大学の宮澤淳一先生が上映に先立って映画の概要をご紹介され、タイトルの由来に付いても簡単に触れられました。この映画のタイトルは、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」からとられたものだそうです。フィネガンズ・ウェイクという作品を全く知らなかった私は、インターネット時代を生きる人間の習慣として早速Wikipediaで調べてみました。すると、「この作品の主題は、だれか特定の人物の物語ではなく、人類の原罪による転落と覚醒であり、円環をなす人類の意識の歴史なのである」とありました。つまり、さまざまなメディアが氾濫し、誰もがその渦の中に飲み込まれてしまおうとしている現代の社会状況を「人類の原罪による転落」に見立て、マクルーハンがその理論により人類に「覚醒」を促しているのだ、というメッセージがこのタイトルには込められているようです。

 参加者は、幅広い年代層に分かれていました。今回、この映画は、初の日本語字幕付きでの上映となったそうですが、その字幕作成には、宮澤先生のゼミの学生達数人が春休みを返上して取り組まれたのだそうです。このイベントには、他にもメディア関連を専攻していると思われる学生さんも多く参加されていました。マクルーハンの理論は50年経っても全く色あせた感じはなく、むしろここまでインターネットが発達した今日になって、初めてマクルーハンが50年前に訴えていた警鐘が現実のものとなって我々の目の前に提示される時代になった、つまり、時代がマクルーハンに追いついた、と言っても過言ではないように感じられます。
《浅羽としや》

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