
粘菌を模倣した省エネルギー情報処理技術の実装に大きな前進
2026年6月16日
早稲田大学
粘菌コンピュータの新しい数理モデルを発見 ~粘菌を模倣した省エネルギー情報処理技術の実装に大きな前進~
詳細は早稲田大学HPをご覧ください
【表:https://kyodonewsprwire.jp/prwfile/release/M102172/202606150872/_prw_PT1fl_lc7yJp5Z.png】
粘菌は脳や中核器官を持たない単細胞生物ながら、体全体で情報を処理し、迷路探索や組合せ最適化問題を解いたりするなど、優れた知性を示すことが知られています。近年、次世代の低消費電力の情報処理技術を実現するために、その情報処理アルゴリズムを模倣した「粘菌コンピュータ」が注目されています。しかし、その動作原理を記述する数理モデルは複雑であり、物理デバイスによる実装を難しくする制約条件や条件分岐を含んでいるため、汎用的な組合せ最適化問題に適用できる粘菌コンピュータの実現は困難でした。
早稲田大学理工学術院 宮島悠輔(みやじまゆうすけ)助教と同大理工学術院 望月維人(もちづきまさひと)教授は、物理実装を難しくしているその制約条件を解消し、粘菌コンピュータの新たな数理モデルを提案しました。数値シミュレーションによる性能評価では従来モデルを上回る性能を示すとともに、これまで困難だった要素数の多い大規模な組合せ最適化問題にも適用可能であることを実証しました。さらに、粘菌の情報処理プロセスの背後に、人工知能(AI)で用いられるニューラルネットワークと共通する構造が隠れていることを明らかにし、構築した数理モデルをスピントロニクス素子で実装する指針を提案することで、粘菌コンピュータの実現への道筋を具体化しました。
本成果は、「Physical Review Research」に、2026年6月9日に掲載されました。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202606150872-O2-3Pm3gdy3】
キーワード:
粘菌コンピュータ、自然計算、ニューラルネットワーク、スピントロニクス、組合せ最適化
(1)これまでの研究で分かっていたこと
粘菌※1は生存戦略に基づいて、外部環境に適応するように自らの体を変形させます。例えば、餌を獲得するために体を伸ばしたり、嫌いな光を避けるために体を縮めたりします。これまでの実験研究で、この粘菌の適応ダイナミクスを利用すると迷路を解いたり、都市間鉄道網を設計したりできることが示され、粘菌は単細胞生物ながら高度な情報処理ができることが知られていました。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202606150872-O4-iU52tvc1】
図1. 粘菌を用いて組合せ最適化問題を解く実験の概念図。実験系は粘菌を用いたデバイスと光照射システムから構成される。デバイスは中央の円型ハブ部分と二値変数を表現する溝からなる。光照射システムはコンピュータ、プロジェクター、ビデオカメラから構成されている。ビデオカメラでそれぞれの溝における粘菌の体の伸び具合を測定し、その結果に基づきコンピュータで計算を行い、溝にプロジェクターで光を照射するか・しないかを決める。粘菌は、光が照射されていない溝では餌を獲得するために脚を伸ばし、光が照射されている溝では光を避けるために脚を縮める。この伸縮のダイナミクスを利用して組合せ最適化問題を解くことができる。
しかし、粘菌の情報処理は、従来のコンピュータとはまったく異なる方法で行われます。具体的には、粘菌にはコンピュータにおけるCPU(中央処理装置)に対応する情報処理の司令塔のような役割を果たす器官がありません。その代わりに、体の各部分が一つの体として互いにつながりながら、自律的・分散的に餌の獲得や嫌いな光刺激の回避を試みることで、この知的な振る舞いを可能にしています(図1)。
一方、ヒト・モノ・情報の流れが加速度的に増大している現代社会において、物流・交通、通信ネットワーク、創薬・材料探索など様々な局面で、高度な組合せ最適化問題※2を解く必要があります。しかし、従来のコンピュータで組合せ最適化問題を解くと、要素数が増えた場合には組合せ爆発が起こり、計算時間が爆発的に増加するため、解決が困難になることが知られています。また、現在のコンピュータは、計算量の増大にともない、電力消費量が増加するという問題に直面すると考えられており、現行のノイマン型※3とは異なる新しい方式に基づく電力消費量を抑えたコンピュータの開発が求められています。
このようなニーズのもと、粘菌の効率的な情報処理を計算技術として活用するアイデアが注目されています。しかし、粘菌自体の変形速度は100秒で1ミリメートル程度と非常に遅く、生存には餌が必要であることから、そのままコンピュータとして利用することは困難です。そこで近年、粘菌の情報処理アルゴリズムをデバイスによって模倣した「粘菌コンピュータ」を開発することに関心が集まっています。これまで「粘菌コンピュータ」の開発に係る初期段階として、その動作原理を数理モデル化する研究が精力的に行われてきました。
しかし依然として、巡回セールスマン問題※4といった汎用的な組合せ最適化問題を解ける「粘菌コンピュータ」は実現していません。これは、従来の数理モデルに問題があるためです。具体的には、従来の数理モデルには、粘菌が体全体の体積を一定に保ちながら変形することが制約条件として課せられていました。しかし、この条件は、実装に用いることができる物性材料や物理現象を強く制限してしまいます。また従来の数理モデルには、条件分岐など物理現象では表現が難しい情報処理が多く含まれており、粘菌コンピュータの実現には、このモデルを見直す必要がありました。
(2)新たに実現しようとしたこと、明らかになったこと
そこで研究グループは、これまでの研究で提案されていた粘菌コンピュータのモデルから、組合せ最適化を解決するために必要な本質的な計算原理を抽出し、デバイス実装に適した数理モデルへと改良しました。そして、数値シミュレーションによる性能評価を行うとともに、最終的には、スピントロニクス素子※5を用いた実装例を示すことで、粘菌コンピュータの実現に向けた具体的な道筋を示しました。
まず、従来型の数理モデルの改良において粘菌コンピュータへの物理実装を困難にしている次の3つの短所に着目しました。
①粘菌の変形において体全体の体積は不変であるという制約条件が課せられていること。
②粘菌のダイナミクスに不確実性を与える揺らぎが一様乱数で与えられていること。
③その実装に複数の素子を必要とするシグモイド関数※6が多く含まれていること。
これらの条件は、先行研究において、粘菌を用いた実験結果を数理モデルで再現するために導入されたものでした。しかし研究グループは、
1.これらの条件が組合せ最適化を実現する上で本当に必要なのか
2.より物理デバイスで実装しやすい数式に変更できないか
という問題意識のもと研究を進めました。
これら3つの課題の解決にあたり、物理現象によって自然に再現できることを最優先にした複数の変更案を検討し、それぞれについて変更前後の性能を比較しました。その結果、課題①の「体積不変則に対応する制約条件」については組合せ最適化の性能にとって必要不可欠ではなく、むしろそれを取り除いた方が高い性能を示すことがわかりました。また、課題②の一様乱数の適用については、その代わりに自然界で広く見られるガウス分布※7に従う乱数を用いることで解探索時間が短縮されることを明らかにしました。さらに、課題③のシグモイド関数に関しては、その一部はより単純な階段関数※8へ置き換え可能であることも示しました。また、各変更が性能に与える影響を比較し、性能向上に寄与するものを採用するとともに、その上で、性能を損なわない範囲で情報処理を単純化する変更も取り入れた、新たな改良モデルを構築しました。
その結果、従来は複数に分かれていた数理モデルの数式を単一の式へ統合することに成功し、これにより新たに提案した数理モデル(以下、「提案モデル」という)は、物理現象においても実現しやすく、かつ単純な情報処理構造を持つという、粘菌コンピュータの実装に適した特徴を備えることができました。
解探索ステップ数や解の質を指標として性能評価を行った結果、提案モデルは、従来モデルを上回る性能を示すことが分かりました。具体的には、巡回セールスマン問題の解探索時間が4分の1程度に短縮され、従来モデルでは100都市程度がシミュレーション計算の上限であったのに対し、提案モデルでは180都市まで扱えることを確認しました。さらに、新たなパラメータを導入したことで、解探索速度や解の質を柔軟に制御できることも示し、モデルの拡張性を明らかにしました。
また、以上のような応用面に加え、本研究は粘菌の示す知性の仕組みを理解する上でも興味深い成果をもたらしました。提案モデルは、シグモイド関数による活性化と重み付けから構成される再帰的な構造を持ち、リカレントニューラルネットワーク※9と等価な情報処理を実現していることを示しました。この結果は、粘菌の情報処理とニューラルネットワーク※10との間に共通する計算原理が存在する可能性を示唆しています。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202606150872-O6-Xgk6GqxJ】
図2. 粘菌を用いた実験から、粘菌が組合せ最適化問題を解く際の本質的な計算原理を抽出した数理モデルを構築し、デバイス実装することで粘菌コンピュータの実現を目指す本研究の概念図。可能なデバイス実装の一例として、強磁性体を用いたスピントロニクス素子による実装案を提案した。
最後に、提案モデルに基づき、組合せ最適化問題を解く粘菌コンピュータを、どのようにデバイスで実装できるかについて考察しました。特に、熱や放射線などに対して安定で、小さなエネルギー消費で操作・制御できる磁性体を活用することを検討し、スピントロニクス素子を用いた組合せ最適化マシンの実装案を提案しました。この物理実装は、粘菌の体積一定則に対応する条件を必要とせず、ガウス分布に従う熱揺らぎを利用するという提案モデルの特徴を直接反映しています。この実装案では、図2(右)に示すように二値変数に対応する粘菌の体の各部分を1つのスピントロニクス素子(上向き磁化の部分と下向き磁化の部分を併せもつ1つの磁気細線)で表現しています。各溝における粘菌の体の伸び具合は、上向き磁化の部分と下向き磁化の部分のちょうど境目である磁壁とよばれる磁気構造の位置で表されます。粘菌が餌を獲得するために体を伸ばす振る舞いは、デバイス全体に磁場を印加する(磁石を置く)ことで磁壁が右側に移動する現象により表現されます。一方、光照射によって粘菌が体を縮める振る舞いは、右側から電流を流して磁壁を左側に押し戻す操作で表現します。粘菌の揺らぎ動作(餌があるのに体を伸ばさない、あるいは光照射されていても体を伸ばすといった気まぐれな動作)は、熱揺らぎや素子の中に意図せず含まれる不純物などによって再現されます。この素子は互いに物理的に繋がっていませんが、体積一定則の制約を取り除いたことで、このような単純な構造が可能になります。本研究は、このような粘菌コンピュータの物理実装の可能性が明らかにし、その実現と社会実装の可能性を大きく向上させました。
(3)研究の波及効果や社会的影響
粘菌コンピュータを実装する上で障壁となっていた数理モデルの課題を解消したため、より多様な材料や現象を実装に利用できるようになりました。これにより、粘菌が持つ高効率な情報処理と適切なデバイスの選択による相乗効果で、従来のコンピュータとは異なる原理で動作する、低消費電力で優れた計算効率を持つ粘菌コンピュータの開発が加速すると考えられます。
これはAIや大規模な組合せ最適化により、現在のコンピュータが将来的に直面するであろう、電力消費量という課題の解決に貢献することが期待されます。また、粘菌の変形において全体の体積が一定であるという条件は最適化問題を解く際に必ずしも必要ではないことや、その情報処理がリカレントニューラルネットワークと等価な構造を持つことを示した点は、粘菌の知性の仕組みを理解する上で新たな視点を提供するものと期待されます。
(4)課題、今後の展望
本研究では粘菌コンピュータの実現可能性の向上を目指して数理モデルを構築しました。巡回セールスマン問題に対して、優れた性能を示すことができましたが、我々のモデルを基礎とする粘菌コンピュータを、実応用レベルまで発展させるためには、より詳細かつ徹底的な性能評価が必要です。
今後は、さまざまな組合せ最適化問題への適用や、提案モデルに含まれる多数のパラメータに対する性能評価を進めることで、モデルの汎用性を明らかにするとともに、その性能を最大限に引き出す設計指針の確立を目指します。また基礎的な観点からは、単細胞生物である粘菌の情報処理をあえてリカレントニューラルネットワークとして捉え直すことにより、そこで創発する「知性」の起源を調べることも興味深い課題だと考えています。
(5)研究者のコメント
本研究では、粘菌コンピュータの動作原理となる数理モデルの構築から、スピントロニクス素子を用いた物理実装の提案までを一貫して行いました。新しいコンピューティング技術を発展させるためには、数理モデルだけでなく、材料・デバイス・応用までを含めた分野横断的な研究が不可欠です。
本研究が数理とハードウェアの架け橋となり、異分野連携を通じて次世代の低消費電力コンピュータである「粘菌コンピュータ」の実現が加速するきっかけになることを期待しています。
(6)用語解説
※1 粘菌
アメーバ様の単細胞生物。実験ではモジホコリと呼ばれる変形菌がよく用いられる。外部環境に応じて、体内を満たす原形質と呼ばれる流体が流動することで、体を伸縮させながら移動する。
※2 組合せ最適化問題
多数の候補の中から最も良い組合せを見つける問題。配送経路の最適化や工場の生産計画、通信ネットワークの設計など幅広い分野で現れる。数学的には、0または1の値をとる変数の組合せに対して定義された関数を最小化または最大化する問題と定義される。最適化の対象となる関数はコスト関数と呼ばれる。
※3 ノイマン型
コンピュータの動作方式の一つで、現在使われているコンピュータのほとんどはこの方式に基づいている。演算を行うCPU(中央処理装置)と、データや命令を保存するメモリが分離されており、両者の間でデータをやり取りしながら情報処理を進める。この構造ではCPUとメモリ間の通信が性能や消費電力の制約となることがある。
※4 巡回セールスマン問題
組合せ最適化問題の一種。都市とそれらの間の距離が与えられたとき、ある都市から出発してすべての都市を1回ずつ訪問し、出発地点へ戻る巡回経路のうち、総移動距離が最も短い経路を求める問題である。このときコスト関数は巡回経路の総移動距離となる。ただし、一般に厳密な最適解を求めるのは困難なため、応用の場面では最適値に近い近似解を求めることが一般的である。
※5 スピントロニクス
電子は、電気的な性質を担う電荷と、磁気的な性質を担うスピンと呼ばれる2つの自由度をもつ。従来のエレクトロニクスが主に電荷を利用して情報処理を行うのに対し、スピントロニクスはスピンも利用して情報の記録や演算を行う技術である。省電力かつ安定な情報処理を実現できる技術として注目されている。
※6 シグモイド関数
引数に応じて0から1の間の値を滑らかに出力する単調増加な非線形関数。閾値と傾きを表すパラメータを持ち、入力が閾値付近にあるときに出力値が大きく変化する。ニューラルネットワークなどで広く利用されている。
※7 ガウス分布
平均値でピークをとり、その周りで左右対称に減衰する釣鐘形の確率分布。正規分布とも呼ばれる。熱揺らぎをはじめ、自然界で最もありふれた確率分布。
※8 階段関数
ある閾値より小さな引数に対して0、それより大きな引数に対して1を出力関数。シグモイド関数の閾値付近の傾きが無限大となる極限に対応する。
※9 リカレントニューラルネットワーク
ニューラルネットワークの一種。特に出力の一部が再び入力としてフィードバックされる再帰的な(リカレントな)構造を持ち、過去の状態を記憶しながら情報処理を行うことができる。音声や動画などの時系列データや言語処理などでよく用いられる。
※10 ニューラルネットワーク
生物の神経回路網に着想を得た数理モデル。多数の人工的なニューロン(神経細胞の数理モデル)が互いに信号をやり取りすることで複雑な情報処理を実現する。画像認識や生成AIなど、現代のAI技術の基盤となっている。
(7)論文情報
雑誌名:Physical Review Research
論文名:Mathematical model of the amoeba-inspired combinatorial optimization machine for physical implementation and its equivalence to recurrent neural networks
執筆者名(所属機関名):
宮島悠輔* (早稲田大学 理工学術院 先進理工学部 物理学科・助教)
望月維人 (早稲田大学 理工学術院 先進理工学部 応用物理学科 教授)
掲載日:2026年6月9日
掲載URL:https://journals.aps.org/prx/abstract/10.1103/zgvb-cfpg
DOI:https://doi.org/10.1103/zgvb-cfpg
*:責任著者
(8)研究助成
研究費名:日本学術振興会 科学研究費助成事業 基盤研究(A)
研究課題名:スキルミオンが持つ新しい物質機能・物性現象の開拓とスキルミオニクスの創出
(課題番号:JP25H00611)
研究代表者名(所属機関名):望月維人(早稲田大学)
研究費名:日本学術振興会 科学研究費助成事業 学術変革領域研究(A)
研究課題名:キメラ準粒子の理論(課題番号:JP24H02231)
研究代表者名(所属機関名):村上修一(東京大学)
研究費名:科学技術振興機構 戦略的創造研究推進事業 CREST
研究課題名:Beyond Skyrmionを目指す新しいトポロジカル磁性科学の創出(課題番号:JPMJCR20T1)
研究代表者名(所属機関名):于秀珍(理化学研究所)

