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【「エンジニア生活」・技術人 Vol.12】偶然から生まれた指紋認証――NEC・樋口輝幸氏
日本電気(NEC)第二官公ソリューション事業部バイオメトリクス事業推進部・マネージャーの樋口輝幸氏
「今日はちょっと変なものを持ってきたんです」。樋口輝幸氏はそういって中学時代に作ったという古いマイコンボードを見せてくれた。「作ってみる。動かしてみる。問題があれば作り直してみる。そんなことを繰り返しているうちに、そのまま会社に入るまでになってしまいました」。そういって笑う樋口氏は、現在日本電気(NEC)の第二官公ソリューション事業部バイオメトリクス事業推進部・マネージャーとなっている。手がけているのは指紋をはじめとした生体認証の開発だ。
PCや携帯電話、空港の入国管理システムなどにも利用されている指紋認証システム。暗証番号やパスワードなどと違って忘れたり盗まれたりすることがなく、身分証明書や鍵のように落としたり忘れたりする心配もない生体認証は、ここ数年さまざまな分野で実用化され始めている。その中には樋口氏の開発した技術や製品を利用しているものも多い。
指紋などの生体認証システムは大きく分けて2つの技術で構成されている。指紋を読み取る技術と、読み取った指紋を照合、認証する技術だ。樋口氏が手がけているのは、主に指紋の読み取り技術の開発だ。
■生き物を相手にする難しさ
樋口氏が同社入社後、最初に手がけたのはOCR機器の開発だった。紙などに印刷された文字を読み取って照合し、データに変換する装置だ。その後、やはりスキャンデータを使った紙幣鑑別装置などを手がけた後、1995年頃から指紋認証の分野を扱うようになる。このとききっかけとなったのは国の機関からの「小さな指紋スキャナを作って欲しい」という依頼だった。当時指紋といえば、もっぱら犯罪調査に使われるのが主流だった。しかし、このときの依頼は指紋による個人認証用のスキャナ。端末のセキュリティ用に本人認証を行える指紋スキャナを付けられないかというものだ。
OCRも指紋も、光学的に読み取ったデータを照合するという点では同じ技術だ。しかし、決定的に異なる部分がある。相手が生きているという点だ。書類や紙幣は多少の状態の差はあれ、基本的には物であり、激しく変化したり、性質が異なるということは少ない。しかし、人間は生きている。指先、皮膚の状態には個人差があるし、同一人物でも汗をかいている場合もあれば、乾燥してしまっている場合もある。
また、個人認証用の装置は犯罪調査用の装置よりも手軽に使える必要がある。犯罪調査用なら、現場に残された指紋や紙に付けた拇印などを使っても問題ないが、個人認証用となると、その場で実際の指を読み取って照合しなければ意味がない。しかも、認証の精度も限りなく100%に近いものを求められる。状態が異なると認証に失敗してしまうようなシステムでは、鍵が使えない鍵穴を作っているようなものだからだ。かといって、ほかの人間の指紋でも認証できてしまったらセキュリティとして成立しない。個人認証のためには、どんな状態でもその場で確実に指紋を読み取れる技術が必要なのだ。
■米国特許局が信じなかった技術
樋口氏が指紋認証の研究を始めた当時にも、指紋を読み取るシステムはすでにいくつも存在していた。プリズムを利用して指からの反射光をカメラで撮影するものや、圧力や熱をセンサーで読み取るものなど、方式も様々だった。その中で樋口氏が選んだのは光を使った方式だ。「どんなに皮膚が荒れていても人間の目では見えることは見える。なら、それに近づけていくのが一番手っ取り早いだろうと思っていたんですね」。しかし、他社の製品を含めて、なかなか満足のいくセンサーはなかったという。そうしたセンサーの研究に転機が訪れたのは、全くの偶然からだった。
「センサー部分を直接指で触ってみたんです。壊れてしまうから、触らないでくださいと言われていたんですけどね。そうしたら、非常にきれいに指紋の画像が出たんです。間に何の光学部品も入れていないのに」。当初はなぜ指紋の画像が撮れたのか誰もわからなかったという。当の樋口氏本人も原理がわからなかった。「誰に聞いても『撮れるわけないだろう』とか『それは光を読み取っているわけじゃないだろう』と言うんです」。しかし、実際に画像は撮れた。しかも、非常に精度が高かったのだ。指が乾燥した状態や濡れた状態でも、従来の製品よりも格段に読み取り精度が上がっていたという。
実はこの方式で読み取っていたのは、外部からの光だった。外部から入ってきた光が指を通って放射され、それをセンサーが読み取っていたというわけだ。この技術は「指内散乱光読取方式」と呼ばれるようになる。しかし、あまりにも意外な発想だったため、米国ではしばらく特許が認可されなかったという。「米国に申請したら『これで画像が出るわけないだろう。嘘をつくな』と言われまして(笑)」と樋口氏は振り返る。日本の特許庁は装置などの構成に対して特許を認める傾向があるという。原理の前に構成に新規性があれば特許として認可されやすい。しかし、米国は原理が間違っていれば特許を与えない考え方が優先する。申請した技術が、原理的に正しいことを証明する必要があったのだ。最終的に樋口氏が実際に米国に赴き、目の前で実演してようやくこの原理を信じてもらうことができたという。
笑い話のような誕生のエピソードだが、指内散乱光読取方式の登場は指紋認証の精度を飛躍的に向上させることになった。画像精度が高いだけでなく、部品の点数も少なくてすむため、小型化も実現できる。実際、この技術が発表されると、同社には問い合わせが殺到したという。
■大人も子どもも、夏も冬も使えるというハードル
だが、原理が発見されただけですぐに製品にできたわけではない。実際に製品化できる段階まで持っていくには改良が必要だった。その1つが耐久性の問題だ。センサーの開発元から言われていたように、直接触っていたのでは、センサーがすぐに壊れてしまう。何らかの保護を施す必要があった。「最初にセンサーに触ったときは1週間も持ちませんでした。人間の皮膚には汗だとかいろいろなものがついていますので。また、センサーはデリケートな半導体なので、圧力にも弱い。製品としていろいろな人が普通に触れるようなものにするためには、工夫が必要でした」。
センサーに付ける保護膜は、当然厚ければ厚いだけ強度が上がる。しかし、その分画像を読み取るのに邪魔なものが増えることになるため、読み取り精度が下がってしまう。かといって薄くすれば強度が下がる。この保護膜の研究にも1年以上かかったという。
また、表面に残る指紋の問題もある。読み取り精度を上げようとすると、その分指紋以外の余計なものまで読み取ってしまうことになる。直接触る認証デバイスには、当然指紋が残る。これをうまく除いて、必要なデータだけを読み込ませる技術も必要だった。
指内散乱光読取方式を応用して製品化された指紋認証モジュール(センサー部)。改良の末、センサーのサイドに赤外線などの光源が取り付けられている
もちろん精度向上のための研究も継続的に行われている。奥さんや子どもの手で試してみたり、風呂上がりの濡れた状態や乾燥状態で試してみたりしながら、試行錯誤を繰り返していった。「指紋は季節によっても状態が変わります。だから、本当は1年くらいかけてじっくり開発したいんですが、なかなかそうはできない。しかたないから冬を再現するために冷蔵庫に手を突っ込んだりして、わざと自分の手を荒らして実験したりもしました。そういう部分が苦労しましたね」。
■人間として自然なインターフェース
「僕は社会のお役に立てればそれでいいんですよ。生体認証も、みんなが安心して暮らせるような社会を作るための道具の1つになればいい。自分が作ったものがそうなってくれれば一番うれしいですからね」。そう語る樋口氏の新たな研究成果が今年5月に発表された。「マルチモーダル指認証」と呼ばれる技術で、指紋と血管の2種類の生体情報を非接触で1度に読み取るものだ。指紋と血管を一緒に読み取り、同時に認証も行う技術は世界で初めてだという。
ATMなど公共の場に置かれる認証モジュールでは、接触型の製品が嫌われるケースも多い。他人が触るというのも理由の1つだが、認証の際に指紋が残る可能性があることも大きい。血管ならば触らずに認証ができる。その認証システムに樋口氏が、指紋の読み取りも同時に行うことを提案したのだ。指紋や血管単体で見るよりも、認証のための情報が多くなる。その分、より精度の高い認証が行えるというわけだ。「指紋でも何でもいいんですよ。要は本人が本人であるとわかればいいわけですから。それが自然な形でわかるのが大事だと思っています。触る必要がないという非接触もその1つの形ですよね。究極的には何もしなくてもその人が誰かを機械が認識してくれればいい。たとえば、前に座っただけで認証できるとか、握手したら認証できるとかですね。そういう人間として自然なインターフェースを持った生体認証システムを作っていきたいです」。樋口氏はそう語る。
しかし、と思う。樋口氏を動かしているのは、世のため人のためという思いだけではないのではないだろう。「僕は誰かの真似をするのが大嫌いですから、似たような技術や製品は作りたくないんです。全然違うアプローチの、ほかの技術者が分解して調べたくなるようなものを作りたい。分解してもわからないようなものをね(笑)」。そう話す氏の顔は、世界に先駆ける技術を開発する切れ者エンジニアというより、電子工作や機械いじりが好きでたまらない“電気少年”のようだった。新しい技術は人をワクワクさせる。しかし、成功談だけでなく失敗談も楽しそうに語る氏の話も、やはりワクワクするほど面白い。ものづくりの理屈抜きの楽しさを知っていて、それを伝えられる。もしかしたら、それもまたエンジニアの才能なんではないだろうか。そんなことを思った。
(小林聖@RBB 2008年6月28日 01:55)
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